はるな堂の歩み

その初代 五味会長が他界した翌年に自然良能会に入門したのが私”藤井 のりお”でございます。
ですので、直接の指導を受けた事はありません。残念ですが。

転機が訪れたのは、入門してすぐの事。信州・上田で開業していた竹内さんという兄弟子が重い病気になり仕事も出来なくなり、師匠の美那子師に体を見てもらいたいと言っているという。
誰か弟子の中で私と一緒に上田に見舞い兼施術に同行してくれる者はいないか?という美那子師。
「これは道中、施術の話を聴くチャンス!」とばかりに手を挙げた私。

会社の車を運転し、初めて上田を訪れたのは1999年5月の連休明けでした。

師匠が兄弟子の施術を終えた時、竹内さんの治療所に通っている方々4~5人が、よほど困っていたのでしょう。
施術をしてくれないかと我々に事前の相談もなく待ってらっしゃいました。
快くひき受け体を見て差し上げると、その中の一人が
「先生方、来週もまた来ていただけませんでしょうか?」と言われた。少々面食らった、というのが正直なところでしたが、その日から一年以上、週イチの休みを返上しての上田通いとなりました。

毎週、日曜日の朝6:00に東京・大崎を出発し、兄弟子の竹内さんと上田の方達を施術して、その日の内に東京へ帰る生活が始まりました。
しかし、その年のお盆に竹内さんは帰らぬ人となりました。
それから後は、上田の来院者さん達を見る為だけに上田に通っておりました。

翌年の秋口、来院者さんの数が多くなって一日で終わらない程盛況になってきて「どうしよう」と考え始めた頃、我々の世話役をして下さっていた来院者さんからこう言われました。
「我々で住む所も仕事場も見つけてきますから、どうか上田に移り住んで治療所をやって下さいませんか?!」

元々、東京での年季が明けたら地元の広島に帰って開業するつもりだったのですが一年以上毎週通って、上田の方々とは気心も知れ、次男坊だった私は実家に戻る必要もなく、そして何より人様にこんなにも「あなたが必要なんです」なんて言ってもらえるシチュエーション、俺の人生で今後もうないな!と思ったら、その場で
「わかりました。私、上田に来ます。」
と答えていました。

もうその時には上田の町や人が好きになっていたんですね。
すぐに弟子入りしていた治療所を辞め、引越しをし、世話役さんが見つけてきて下さった戸建ての賃貸物件で仕事を始めました。もう来院者さんの数は足りていたので経営は問題なかったのですが、もうひとつ越えなければいけない課題がありました。
まだ資格を持ってなかったのです。
その当時、長野には開業のできる国家資格を取れる学校が無かったので、仕方なく東京の専門学校を受験し、合格した私は3年間、新幹線で通学しながら仕事をする日々を送る事となります。

二十代の頃、開業資金と学費を貯める為に週120時間以上大型トラックに乗り、過酷な労働には慣れているつもりでしたがこの頃は更にキツイ生活だった様に思います。

朝7:00前の新幹線に乗り、午前中は授業を受け、昼過ぎの便で上田に着くのが14:00頃
治療所兼住居に戻るともう来院者さんが4~5人待ってらっしゃる。
(その頃は予約制ではなかった)

早くて20:00過ぎ、遅いと22:00近くまで仕事をし、また翌朝5:30には起床・・・
今はもう出来ません!
そんな生活で体を壊しかけていた私に救いの手を差し伸べてくれたのが美那子師でした。

「あたな、私の養子になりなさい。」自分でも目が真ん丸になっているのが判りました。
少々戸惑いもありましたが、私は師匠の息子になりました。

専門学校を卒業し、無事”指圧師”の国家資格を取得。
翌年、上田市中之条に治療院「骨盤調整はるな堂」を開業。
名称の由来はもちろん榛名山。
榛名の山は骨盤調整のルーツなんです。
その名に恥じない仕事を心がけ、今日もおいでになる方々の痛みと向き合います。